「はじめに」から読み始める。 今日の精神療法家はいわば「懐疑的」になっている。 どんな方法や技法を適用しても、症例の大半は改善されるのだから、というわけで。 「しかし、そうは言っても、…『ピラトの問い』はいまだに答えられていないからである。」ここで引っ掛かる。 それは「健康とは何か」「健康になるとはどのようなことか」「癒されるとはどのようなことなのか」という問いだという。 でもなぜ「ピラト」が引き合いに出されるのか。 ピラトが「真理とは何か」と尋ねたのにイエスは答えなかった。 その答えがないところが相応するからなのか。 ドイツ語の辞書では、Pilatus(ピラト)の例文に、” von Pontius z u Pilatus laufen " (役所の窓口などを)あちこち無駄に走り回る(たらい回しにされる)とあるが、その意味でもないだろう。わからないところは霜山先生の「死と愛」も参照するのだが、この「はじめに」は1961年の講演録だから、 原本が1952年刊行の第6版である「死と愛」には入っていない。 聖書になじんでいる読者には共感できる適切な表現なのかもしれないが、その素養がない者にはなぜピラトなのかどうもピンと来ない。 ま、これはピラトに限らず随所で感ずることだが、少なくとも聖書と西洋哲学の素養はフランクル理解には必須のレディネスのようだ。 しかし無い袖は振れないからその都度あちこち調べながら進むしかない。
精神療法は、医術でもあり技術でもある。 実践はその中間領域で行われる。 「どのような方法が選択されるか(ψ)は、患者の一回性と唯一性、医師の一回性と唯一性の両方を計算に入れないと成り立たないという点において、二つの未知数から構成される方程式から導き出されるのである。ψ=x+y...」
「人間は多様なものの統一である。… 精神療法は身体的次元も心理的次元も精神的次元も、… ヤコブのはしごのように上り下りして考慮しなければならない。」 ここですでに次元的存在論が展開されている。
次いで人間は生物学的及び心理学的次元は動物と共有しているが、無限に動物以上であることを自動車と飛行機の対比のアナロジーで述べている。 飛行機も自動車と同じく平面を走るけれども、空中に、三次元の空間に上昇し飛行機であることを証明する。 人間も、生物学的、心理学的、社会学的など諸々の制約からの自由の次元を持つ、さらに何かへの自由、すなわちあらゆる制約に対して態度をとることへの自由を有している。 自由の次元へ飛翔するとき、人間であることが証明される。
さらに、向精神薬による治療に関して、「引き潮と暗礁」のアナロジーが出てくるが、これについてはこのブログのもう一つのテーマ「エピソードとアナロジーで理解するフランクル」で取り上げる。