(p.7)薬理学的観点から始める。向精神薬は精神療法を機械化し、患者を「非人格化」するという心配が表明されている。が、技術が問題なのではない。技術を扱う精神が問題なのである。病気の背後に人格を見ることをしない、心の中にメカニズムしか見ない精神が問題なのだ。そこでは、人間はもの化されるかあるいは操作される。のここで「もの化される」の原文は“der Mensch wird reifiziert -er wird zur Sache gemacht- ”だがドイツ語の辞書にはreifizierenという単語は見当たらない。英語にはreify, reificationがあるからそれをフランクルはドイツ語化したのかもしれない。訳注では、”Reifikation" の動詞として、詳しく説明されている(p.19)。なおこの「もの化」については「まとめ」にも出てくるがそれにも訳注が付いている(p.417)。
次に、技術の正当な取り扱いの例として内因性抑うつの症例に向精神薬を用いることがあげられ、「引き潮と暗礁」の例えが引かれる。暗礁に例えられる罪責に対決させるのは「自責の念でぐるぐる回る水車に水を流すようなもの」で不適切であり、薬物療法で苦しみを緩和するのが適切である。
けれども、心因性抑うつ、抑うつ神経症の場合は事情は別である。薬物療法はなじまない。患者たちは自分の人生の意味を見出すことに絶望している。しかし実存的欲求不満は病理的なものではない。精神因性神経症(noogene Neurose)に関わる。精神療法には、意味と価値への人間の方向づけという武器が必要である。広がりつつある実存的空虚感は、新しい(ロゴ)セラピー的な方法を求めている。「精神療法の医学への回帰」と医学の再人間化が求められている。