第1章を読む(1)

「人間とは何か」第1章 精神療法からロゴセラピーへ

1 精神分析と個人心理学

いよいよ本文に入った。フロイトとアドラーから始まる。「巨人の肩の上に立っている小人は、巨人自身よりも、もっと遠く、もっと多くのものを見ることができる。」巨人が創始した精神療法の偉大な体系にも限界がある。限界を乗り越え、もっと遠く、もっと多くを見なければならない。

フロイトでは「抑圧」という概念が中心である。精神分析は、抑圧され、無意識化されていた体験内容を意識化させることで自我を強化する。

アドラーでは「債務整理(Arrangement)」という概念が主役である。神経症患者は、債務整理によって自分には責任がないと弁明する。だから個人心理学のセラピーでは、自分の症状に責任がもてるようにし、責任性の増大によって自我圏を拡大する。

ここで「債務整理」に「えッ?」となる。霜山訳では「妥協」となっているがこれもピンと来ない。“Arrangement”なら普通に「配置」ぐらいでいいのではないか。要するに「責任」をどこにおいて事態を見る(配置する)かということではないのか。「神経症の症状は、患者から責任をとりあげて、いわば症状自身が責任を引き受けることになる。」「…また(いわゆる疾患合理化として)自分自身に対する正当化の試みである。」などの説明も責任がどこにあると見るか、配置のエラーを問題にしていると考えると理解できる。配置のエラーを修正することが治療になる。なお「疾患合理化」というのは、精神分析の防衛機制のひとつ、「合理化」(「酸っぱいブドウ」)のことか。

アドラーから具体例を拾ってみる。「…同じような兆候が、神経症者の間にも見ることができる。例えば、不眠症に悩まされ、次の日仕事ができないほど弱っているということがある。眠れないので仕事にならないという理由があれば、仕事を要求されないと感じている。彼(女)らは嘆き悲しむ。「眠れさえすれば、どんなことだってできるのに!」と。」(アドラー 個人心理学講義 p.42)

こうして、神経症とは、精神分析では意識性としての自我の狭小化を意味し、個人心理学では責任性としての自我の狭小化を意味している。しかし人間は意識存在であると同時に責任存在である。意識性と責任性が統一され、人間存在の全体性へと統合されている。

ここから、「あらゆる存在(Sein)は本質的につねに他在(Anders-sein)である。」と展開するが、これも「ン?」。さらに読んでいくと「あらゆる存在は関係存在である。」この一節、我が家のワン公が齧っているヒマラヤチーズみたいに難物・難解である。具体例で考える。朝ドラ「らんまん」の草花だって皆それぞれ他と違う存在であり、しかし系統的に分類される「関係」にある。「他在」であり「関係存在」である。

 さらにこの「他在」には「並存」と「継起」がある。意識は、主体と客体の並存つまり空間次元の他在を前提にし、責任は現在と未来の存在の分離つまり時間次元の他在を前提としている。一人ひとり横並びそれぞれ皆違う存在であるし、責任をとることはある時点でのある状態からその後のある時点で他の状態に変わること(継起)である。

6月はここまでを読んだ。(p.26  l.l7