先月は、人間学的な見方の二つの可能性のうち、それぞれの一方が精神分析と個人心理学によって捉えられたというところ
(p.26、7行目)まで読んだ。
この後は、霜山訳「死と愛」とは全く違っている。大幅に改訂されている。
まずフロイトが心理的存在という次元のほとんどすべてを開拓したことを評価している。しかしフロイト自身は自分の発見を過小評価している。彼は精神分析において本質的なものは抑圧や転移のようなメカニズムと考えていたが、重要なことは、実存的な出会いによってより深い自己理解へと導く媒介の問題だった。精神分析の二つの本質的概念は抑圧と転移だが、抑圧については意識化によって「エスのあるところに、自我が生まれなければならない」。転移については、それは本来的には実存的出会いの表現手段である。
こうして精神分析の核心は、意識化と転移という二つの原理を統合した次のような定式にある。「エスのあるところに、自我が生まれなければならない。」けれども「自我(我)は他我(汝)によってはじめて自我(我)になるのである。」
つまり、干拓によって陸地が広がるようにエスを意識化することで自我が強化される。けれども自我(私)は他我(あなた)との関りにおいてはじめて自我(私)になるのである。あらゆる存在は関係存在だからである。
さらに「自我(我)は、一人の他我(汝)を志向するときにのみ、自分自身のエスを統合することができる。」 つまりまなざしを他の誰か(あなた)に向けるときはじめて愛は人格全体に統合されるのである。
7月はここまで(p.28 7行目)を読んだ。フロイトは心理次元で抑圧や転移を考えていたが、実は実存的な出会いによってより深い自己理解へと導く媒介という精神次元の問題だったのである。