サルの住む環界からは自分を実験に使っている人間の考えを読み取ることができない。人間の世界である意味と価値の世界は、サルには理解不可能である。サルはその世界の次元に入り込むことができない。同じように、人間にとって理解不可能な世界(超世界)が人間の世界の上に存在しており、その世界の意味(「超意味」)だけが人間の苦悩に意味を与える。サルが注射される苦痛の意味が理解できないように、人間にも苦悩の意味が理解できない。「なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記」(岩波現代文庫)において、H.S クシュナーは、「すべてのことに理由があるのか?」と問い、「理由のないこともある」と結論している。大地震や津波のような大災害の物理学的な必然は説明できるかもしれないが、それに遭遇する人びとにとっては不可解で、理不尽な偶然である。クシュナーは、ふりかかってくる不幸な出来事に意味はない、私たちのほうでそれら無意味な悲劇に意味を持たせればよいという。「どうして、この私にこんなことが起こるのだ?私がいったい、どんなことをしたというのか?」という問いではなく、「すでに、こうなってしまった今、私はどうすればいいのだろうか?」と問うのである。勝田先生の「問いかけを書き換える」がこれである。(勝田茅生 ロゴセラピー入門シリーズ3 精神の反抗力と運命/喪のロゴセラピー P.132)
フランクルは二人の被収容者にコペルニクス的転回を促したとき(7月23日ブログ)「人生の意味はそもそも問われうるものではなく、むしろ人生とは、その具体的な問いに答えねばならないもの、それに応答せねばならないものである。」と話した。この「人生の意味は…問われうるものではなく…」ということは、ただ問の方向が違っているということではなく、意味の次元が違うので問うことができないということなのではないか。 ケネディ大統領の就任演説は問の方向を変えることを求めた:「ですから、アメリカ国民の皆さん、国があなたに何をするかを問うのではなく、あなたが国に何ができるかを自問してください。」けれども、この人生(強制収容所でのただ苦しさに耐えるだけの絶望の日々を生きること)の意味を問うことはできるのか。苦境に生きる意味を問いうるのか。サルは注射の苦痛の意味を問うことも理解することもできない。人間の苦悩に意味を与えるのは、人間がアクセスできない世界(超世界)の次元の超意味である。