戦時中人々は、防空壕、敵国、俘虜収容所、さらに強制収容所で、いのちの保証、生き残る確信を持つことができず、いわば「仮の生き方」をするようになり、漫然と生きていた。しかし、死に直面しながらも、自分の最善をつくし、自分の使命を果たそうとした人たちもいた。彼らは、強制収容所で死の脅威があってさえ、自分たちの境遇である収容所生活をかりそめの出来事とは考えず、それはむしろ彼らの人生の頂点、最高の道徳的飛躍のきっかけともなった 。「われわれは 自分に課された使命を果たしさえすれば、もう心配するには及びません。というのも 老子の言うことを信用すれば、使命を果たしたとは―永遠にあることだからです。」(時代精神の病理学 p.28 )
ここで 老子が出てくる。かねてからフランクルには老子に通じるものがあると思っていたが、直接老子の引用に出会ったのは初めてである。しかしこの引用は老子のどこからなのか。たまたまヤスパースを読んでいたら同じ文が見つかった。「すべての実在が共々に現われるが、再び返っていってしまうのが見られる。実在が展開しきってしまうと、それぞれの実在はその根源に帰る。その根源に帰っていると言うことは休らうことである。休らうとは使命を果たしたことである。使命を果たしたということは永遠であることである。」(16)(K.ヤスパース 田中元訳 孔子と老子 理想社 p.88) すなわち老子第16章が出所らしい。
どんな状況でも仮の生き方には弁明の余地がない。上掲のエピソードでフランクルは、死に直面してさえ生は無意味ではないこと、具体的で最も個人的な使命が課されていることを説いた。
「人間とは何か」では被収容者の生き方を「仮の存在」と特徴づけ、さらに補足が必要であるとしている。(人間とは何か p.187)収容所では単に仮の生活というだけではなく「無期限の」仮の生活が問題だった。ひとたび収容所に足を踏みいれたときには(収容所の状態についての) 不確かさが終わるとともに、終わりの不確かさが始まる。無期限ということは未来がないという体験に行き着く。未来の目標を見据えることは、被収容者にとっては極めて必要な精神的支えになる。この精神的支えだけが自分を失ってしまうことから、人間を守ることができるのである。