「人間とは何か」の201ページ、《…したがって、人間がこうむる運命は、第一に―もし可能ならば―それを形成し直すことによって、第二に―もし必要ならば―それに耐えることによって意味を持つのである。》という一文に引っ掛かった。
運命を形成し直す?(「形成し直す」は踏み込みすぎた訳で「形成する」だけでよいと思われるが、いずれにせよ)人間が回すことができない歯車が運命だったのではないか。ということで運命について「考え直す」ことになった。
たとえば、「赤い糸で結ばれていた」二人が出会うところまでが運命で、結ばれた二人がどのように生きていくかが「運命の形成」になるのか。与えられた運命と形成される運命ということか。上掲の彫刻師のアナロジーでは運命は素材の石を与え、人間はそれを鑿と槌で加工し価値を刻みだす。さらに読み進んでいくと、《…もはや創造価値を実現するどのような可能性ももたず、運命を形成する可能性が実際に存在しない場合に初めて、人間は態度価値を実現できるのであり、その時に初めて「自らの十字架を引き受けること」が意味を持つのである。》(p.201)とある。創造価値の実現は(そして体験価値の実現も)、運命の形成なのである。そうして、運命の形成がもはや可能ではない状況に於いてはじめて態度価値が実現され得る。彫刻師が素材から彫像を刻みだすように、われわれは人生からさまざまな価値を刻みだすのである。《「人生は或るものではなく、つねに、或るものへの機会に過ぎない。」このヘッベルの言葉…》(p.202)も、人生における運命とのめぐり逢いは、「或るもの」を実現する(価値を刻みだす)「機会」に外ならないことを意味している。彫刻師は可能性を現実化する自由を持つと同時にまた責任をも負っているのである。可能性が現実化し「過去」になればそれもまた彼にとっては一つの運命となるのである。