2月は、48~53ページを読んだ。
《4 遺伝的還元主義と分析的汎決定論》
今は専門家の時代である。彼らが伝えるのは、現実を特殊な視点や角度からとらえたものである。その研究成果は、森という現実ではなく木を見ている。それらを統一的な世界像や人間像に融合することは困難になっている。《しかし、危険は、研究者が専門化することにあるのではなく、むしろ専門家が一般化することにある。》(p.48)例えば、「人間とは一つのコンピューターにすぎない」という主張がこれである。《ニヒリズムは無について語ることによって仮面を脱ぐのではなく、「にすぎない」という語り口によって仮面をかぶるのである。》(pp.48-49) ニヒリズムは「無」(Nichts)について語ることによって仮面を脱ぐのであるが、この「恐るべき一般化」をする還元主義のニヒリズムは、そうではなくて、「にすぎない」(nichts als )という語り口によって仮面をかぶる(真実を覆い隠す)のである。
《心理内の「審級を擬人化する」傾向は、精神分析の影響のもとに引き起こされ、…一つの潮流となって、至る所に策略やごまかしを感知し、それらの仮面をはがし、正体を暴露することを目標にする傾向を根づかせることになった。》(p.49)フロイトの心的装置の検閲とか超自我は、至る所で仮面はがしや正体暴露を働くが、こうした《…「解剖への情熱」は、意味や価値の前で停止することなく、精神療法をその根底から脅かし、危険にさらしている。》(p.49)意味や価値に真正面から対応するのではなく、正体暴露の「解剖への情熱」で臨むのである。このような還元主義は似非科学である。《この方法によって、人間独自の現象が人間以下の現象に還元されるか、そこから演繹されるからである。》(p.49)
《このような還元主義の中に現れる学問上のニヒリズムに対して、生活上のニヒリズムがある。実存的空虚感がそれであろう。還元主義は、人間をもの化し、物象化し、非人間化する傾向によって空虚感を助長しているのである。》(pp.49―50)しかし、≪「人間は、椅子や机のように存在する物体ではない。人間は生きているのであり、もしも人間の生命が単なる椅子や机のような存在に還元されていることに気づくなら、彼は自殺しようとするにちがいない。≫(p.50)
≪決断能力のある人間は、ある行動の見せかけの決定因にまさに抵抗することができるのである。そして、見かけ上は全能であるかのような諸条件に対して自由であることを喚起することは、とりわけ精神療法の役割なのである。≫ この自由を明らかにする道を患者に指し示すためには哲学を医療として用いることが必要である。 以上 p.53終から6行目まで