第1章を読む(9)

 

3月は、53~59ページを読んだ。

「汎決定論」は間違っている。なるほど人間は諸々の条件によって支配され決定されてはいるが、そうした制約に対して態度をとる自由を持っているからである。汎決定論はこの本来的で人間的な可能性を見落としている。《…その自由とは、人間のあらゆる制約を飛び越え、最も劣悪で過酷な諸条件にも立ち向かい、それに抵抗する自由である。そして、この自由は、私が精神の抵抗力と名づけているものに基づいているのである。》(p.54) 「精神の抵抗力」は「精神の反抗力」のほうが良い。(320日ブログ参照)

 5 人間の似姿

ニコライ・ハルトマンの存在論とマックス・シェーラーの人間学は、身体的、心理的、精神的という段階または層を明確に区別した。では、人間の統一性はどうなるか。《私は、人間を、多様性にもかかわらずの統一と定義したい。》(p.55

幾何学的なアナロジーで人間の似姿(人間像)を素描する。この次元的存在論には二つの法則がある。

第一法則:ある一つの物体をそれが存在している次元から、相異なるより低次の次元に投影すると、各々の投影図は互いに矛盾する(食い違う)。(図1)

第二法則:異なる物体を、それらが存在する次元から、それよりも低次の同一次元に投影すると、同じ(多義的であいまいな)投影図が描き出される。(図2

人間も第一法則によって、生物学的平面に投影されれば身体的諸現象が生じ、心理学的平面に投影されれば心理的諸現象が生ずる。この矛盾の架橋は、一段高い次元、人間に固有の次元にのみ見出されうる。次元的存在論は心身問題がなぜ解決できないかを説明する。人間の多様にもかかわらず統一的であることは、生物学的次元、心理学的次元では見出すことはできない。人間に固有の精神次元においてこそ見出されうる。同様のことは意志の自由の問題にも当てはまる。コップのような開いた容器も底面や側面に投影されれば閉じた図形になるのと同じく、人間も生物学的平面、心理学的平面においては閉じたシステムとして描きだされる。しかし人間は「世界開放的」であり、人間の実存の本質は自己超越にある。自己超越は、モナド主義的な人間像の枠を超え出ている。しかし、より低次の次元で得られた認識でもその次元では有効である。これは条件反射学、行動主義、精神分析、個人心理学にも妥当する。フロイトも彼の理論的立場が次元的に制約されたものであることを知っていた。けれども彼は「…宗教のための住まいを、私はこの低い小屋の中に見出していたのです」と記したとき、還元主義の間違いをおかしたのである。 以上P.59 終から6行目まで