6月の例会は、その2日前急逝された鈴木宏さん追悼の話し合いだけにし、テキストは読まなかった。鈴木さんはこの会のためにいつも細やかな配慮をされていた。去年の夏は、「林間学校」と名づけて原阿佐緒記念館や七ツ森の古民家蕎麦屋に連れて行っていただいた。毎月の例会は、鈴木さんのリードで、体ほぐし体操から始まる。欠席者には、その日の要約をメールで送っておられた。鈴木さんは、日本ロゴセラピスト協会の「フランクルを読む会」にも参加されていたが、鈴木さんの通夜の夜読んだのは、「人間とは何か」の≪確かに、どの収容所にも…少数の人々がいたのである。それらの人々は自分自身のためには何も求めず、ひたすら自分を捨て、自分を犠牲にしながら、点呼場を横切り、収容所のバラックを通って、こちらでは優しい言葉をかけ、あちらでは最後の一切れのパンを手渡していたのである。≫(P.186)というところまでだった。鈴木さんは、いつもその人のために何がよいかを考える心優しい人だった。
7月は、5月の例会で読んだ最後の文を復習することから始めた。≪こうしてヤスパースは、人間の存在を「決断する」存在と呼び、ただ単に「ある」のではなく、「彼が本質的にあるところのもの」をそのつど新たに決断する存在であるとしたのである。≫(p.64)の一文である。ヤスパースのこの考えは、161ページでも引用されており、その紹介のほうが具体的でわかりやすいのでそこを参照した。
7月はp.64の最後の行から読んだ。人間の行為の倫理的価値判断はどういうとき可能か。≪…人間が自然的な所与に対して抵抗し、それに対して「自ら態度をとる」とき、…道徳的価値判断の可能性が始まるのである。…功績や罪といった概念の意味は、いま述べたようなすべての制約を運命的な所与として単純に受けとるのではなく、それらのうちに運命と人生とを形成する課題を見て、それらに対して何らかの態度をとるという本来的に人間的な可能性を認めるか否かということにかかっているのである。≫(p.64)運命と人生とを形成する課題にどう態度をとるのかが問われるのである。その人にその責任を帰されえない事柄については、その人の功績でも罪でもない。これは当然のことと思われるが、それに続く、≪この考え方は、…西洋的思考の基礎であり、…非キリスト教的思考とは厳密且つ明確に対立して、人間がみずから自由に決断し、責任をもって行為することができる場合に初めて、その人は倫理的評価を受けることができるのであって…≫(p.66)という記述は理解に苦しむ。「非キリスト教的思考」とは具体的にどのような思考なのか。自由な決断や責任ある行為が不可能な場合には倫理的評価もなされないことは、キリスト教的思考に限らず、普遍的な認識ではないだろうか。
ともかく、こうして、「精神的なものからの精神療法」としてのロゴセラピーの必要性と可能性を検討した第1章は読み終えた。