第2章を読む(1)

2章 精神分析から実存分析へ

1 一般的実存分析 (1)人生の意味

精神分析は心理的なものの意識化に努めるが、ロゴセラピーは精神的なものの意識化に努める。《ロゴセラピーは、とくに人間的実存の本質的根拠である責任性を人間の意識にもたらそうと努めるのである。》(p.78)責任というのは義務に対する責任であり、義務は人生の意味から理解される。こうして人生の意味への問いがこの章の初めに立てられる。

1 現存在の意味への問い

≪人生の意味への問いは…人間的な問いである…それはまったく人間存在の本来的表現であり、…最も人間的なものの表現なのである。≫(p.79) 蜂や蟻のように高度の社会的組織をもつ発達した生物でも自分の存在の意味を問うことはない。

意味の問題は人間を圧倒しかねない問題であり、特に思春期においてそうである。あるギムナジウムの理科の授業中に、人間の生命も「結局」一つの酸化現象・燃焼過程に「他ならない」と説明した教師に、一人の生徒が「それでは、いったい人生そのものにはどんな意味があるのでしょうか。」と激しく食ってかかった。この生徒は、人間という存在は机上で燃え尽きていくロウソクとは異なった存在様式で実存していることを正しく理解していたのである。

《人間存在は、…歴史的存在であり、…歴史的空間の中に置かれており、この座標系から逃れることはできないのである。》(p.80)

ロウソクとは異なり、また蟻や蜂とも違って、人間は「歴史的存在」なのである。「歴史的」ということは、人間が生きていく時間軸の上のどの時点も唯一的、一回的な意味実現の機会であるということではないか。フランクルの砂時計の例えで考えてみる。砂時計の上部は「未来」でそこには多くの可能性がある。真ん中のくびれのところは「現在」で、ここで可能性のなかの一つを選択して実現化する。フランクルはこれを「救い出す」と表現している。選択されなかった可能性の実現の機会は永遠に消え去るからである。その都度の「状況の意味」によって決断し選択するのである。選ばれた砂粒はくびれを通って下に落ち「過去」になる。こうして唯一無二の「自分史」が形成される。

エルヴィン・シュトラウスは「生成的現実」と名づけた生の現実から、歴史的時間という要因が欠かすことができないものであることを示した。生成的現実を「歪める」一つの形態は「現在的」存在である。すなわち≪過去にも基づかず、未来にも向かわず、むしろただ歴史無き純粋な現在だけに関係しようとする態度≫(p.81)これである。この態度は芸術的耽溺や過度の自然主義的熱狂への神経症的逃避であり、そのとき、その人は自己忘却、義務忘却に陥っているのである。「正常な」人間も、ある時間のみ、ある程度のみ、たとえば「祭り」に酔いしれるときのように現在的態度をとることがある。

9月は、以上7882頁を読んだ。